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大正8年(1919)、愛知県一宮市に生まれる。昭和15年(1940)、元海軍技術研究所(三田)に奉職、送受信機、電離層などの研究に従事、委託学生として大阪大学理学部・浅田教室に学び電波雑音、電波反射などの研究をする。電波環境の草分け期であった。昭和21年(1946)帰郷し、愛知県北部電波研究所を創設、電気雑音などに関する基礎研究に取り組む。


一方、防止協議会組織の発展向上に尽力し、その間、受信機のイミュニティの測定方法や障害パターンの自動記録装置、無線局障害対策用フィルタの発明などで電波障害防止中央協議会から表彰を受けたこともある。特に現場技術には、30年余にわたる豊富な経験と細かく分析されたデータを持っている。


愛知県北部地区電波障害防止協議会会長、アマチュア無線局JA2JAを500Wで運用し、趣味と研究とを兼ねている。昭和43年~昭和46年までJARL理事、昭和47年~昭和52年までJARL副会長を歴任。ICOM Webサイト 週刊Beacon 「アマチュア無線人生いろいろ」JA2JA 神戸幸生氏 を併せてご覧ください。平成17年10月 SK (JA1FUY/NV1J) 2025/07/27

JA2JA 神戸幸生氏
JA2JA 神戸幸生氏
神戸幸生氏の著書 左「無線障害ハンドブック}昭和60年 右「電波障害ハンドブック}昭和55年 いずれも電波実験社発行
神戸幸生氏の著書 左「無線障害ハンドブック}昭和60年 右「電波障害ハンドブック}昭和55年 いずれも電波実験社発行

 

岡本次雄(おかもと つぎお)

1915年(大正4年)3月、東京下谷龍泉寺町に生まれる。1940年(昭和15年)3月電機学校高等工業科を卒業しました。昭和15年以降、安立電気、日本電気、大洋無線、東新電気、JARL社団法人日本アマチュア無線連盟副会長理事を歴任され、1944年(昭和19年)電気通信技術者第1級に合格しました。


1984年(昭和59年)新明電設㈱取締役、第1級アマチュア無線技士(JA1CA)、第1級無線技術士、電気学会、電子通信学会会員。著書は「SSB送受信機の設計」「モービルハムの技術」岡本次雄・木賀忠雄共著 電波実験社刊、「日本アマチュア無線外史」岡本次雄・木賀忠雄共著 電波実験社刊など多数の著作・論文ほか、オートダイン研究会の講演「オートダインの過去と現在」があります。2004年9月没、89歳。


1955(昭和30年)年頃のJA1CA 岡本次雄氏とシャック 地3号受信機 中央、下にコンバーターが入っていたが、これを取り去って交流電源を入れた。
1955(昭和30年)年頃のJA1CA 岡本次雄氏とシャック 地3号受信機 中央、下にコンバーターが入っていたが、これを取り去って交流電源を入れた。
1991(平成3年)年頃、JA1CA岡本次雄氏宅で撮影
1991(平成3年)年頃、JA1CA岡本次雄氏宅で撮影
JA1CA JA1AR共著の「日本アマチュア無線外史」と「モービルハムの技術」
JA1CA JA1AR共著の「日本アマチュア無線外史」と「モービルハムの技術」

JA1AR 木賀忠雄(きが ただお)

1918(大正7年)年8月、東京市浅草区田町に生まれる。1938(昭和13年)年3月、蔵前工業学校電気科卒業。1938(昭和13年)4月、日本無線株式会社に入社、無線通信機の設計に従事。1972(昭和47年)年4月社団法人日本アマチュア無線連の専務理事、技術研究所所長を歴任、1983(昭和58年)年8月退職。 著書に受信機の設計と製作」CQ出版刊 「アマチュア無線ハンドブック」(共著)その他論文多数。2002年12月22日没、84歳


JARL専務理事 当時のJA1AR木賀忠雄氏
JARL専務理事 当時のJA1AR木賀忠雄氏

(JA1FUY/NV1J) 2025/05/24


 

JA1CLN、笠原 豊さんは国際電信電話(略称KDD)の国際間通信のプロフェッショナルとして、欧州や南米など外国勤務が長く英語、スペイン語などに堪能です。KDD退職後、JARL国際課長に就任、IARU第三地域総会などに尽力、そして退職、次に東京・渋谷の貿易会社に勤務する頃、友人ら10名と共に中国の福建省福州市を訪問して市内の中学や少年宮に5つのクラブ局に機材を援助、技術支援を行いました、これをきっかけにして中国語の習得に意欲を示し語学学校へ。傍ら体調に合わせて週3日から1日の勤務へ減らしてリタイアに至りました。声のかすれから咽頭ガンを疑い1995年12月検査入院、正月には自宅へ戻り静養しておられました。

JA1CLN笠原豊さん(1923-1996)
JA1CLN笠原豊さん(1923-1996)

桜が満開の頃、笠原さんの体調も安定して外出が可能と夫人(ex JA1CLM)から聞いて、伊豆方面のドライブへ誘いました。東京・練馬に笠原さんを迎えに行き、折から来日中のBA1CY周海嬰さんと合流しました。

左からJF1GUQ、JA1CLN、JA1CVF、JA1FUY
左からJF1GUQ、JA1CLN、JA1CVF、JA1FUY

車は東名高速道から小田原厚木道路を経由して伊豆半島へ。笠原さんが中国語で「私の中国語はどうですか、わかりますか?」と話しかけると、周さんが「笠原さんの北京語はとてもお上手です」と、皆に分かるように英語で応じて語学教室のような雰囲気になりました。伊東のリゾートホテルに仲間が集ってきてにぎやかになりました。記念写真を撮りあいQSLカードを交換する中、JA1ZNG(当時・モービルハムアマチュア無線クラブ)の無線設備を部屋に運びシャックをこしらえました。アンテナは14MHzと21MHzのツェップを張って同軸ケーブルを室内に引き込み、オペレートは食後の楽しみとしました。 シャンパンで乾杯して和やかな夕食会が始まりました。周さんと笠原さん、それに松本正雄さん(当時・JARL理事、JA1AYC)、川島健太郎さん(当時・神奈川県支部長、JJ1HKS)、岡田圀昭さん(MH筆者、JA1CVF)、編集者(JA1FUY、JF1GUQ)2人の計7人です。日本語・英語・中国語が飛び交うにぎやかなミーティングになりました。夕食の後は一部屋に集り、おしゃべりに興じました。誰かが笠原さんに「マジックを見せて」とせがみました。国際課長に就任早々、ニュージランドのオークランドでIARU第3地域総会に参加した時、さようならパーティーで各国代表団員を前にしてマジックを披露しました。ジョークをまじえた流暢な英語に拍手喝采を浴び、愛称のケーシー・コールが沸きあがりました。

仲間からのリクエストに応えて立ち上がり、意味ありげに片目を瞑って上着のポケットから一本の白いロープを取り出し、鮮やかな手つきで切ってはつなぐ妙技を披露しました。アマチュア仲間6人のための独演会です。笑みを絶やさずカードの演技に進みます。間近に見ていてもタネは全く分かりません。オークランドでのさようならパーティーの再現でした。

それから数ヵ月後、笠原さんの訃報が届きました。お悔やみに行って敬虔なキリスト教徒であったと知りました。日曜日は必ず教会で神父さんの説教を熱心に聞いていたといいます。病院で亡くなる前日、医師を呼んで別れを告げ、神父と一緒に旅立ちの聖歌を唄い「幸せな人生だった」と感謝の気持ちを伝えました。夫人が見守る中、明け方に永遠の眠りにつきました。葬儀では「遺言により大学病院へ献体した」と子息から披露され、参列者は衝撃を受けました。

自作全盛時代のアマチュア無線家達の間では『不用になった無線機/パーツ類は特別に高価なものを除いて、熱心な後輩・入門者の研究・自作援助用に提供するのが真のアマチュアOM精神』という風潮がありました。そんな旧き良き時代のアマチュア無線を想い出させるように、人生の最後に身を呈して伝統的アマチュア精神を貫かれた笠原さんの見事なまでの身の処し方に、強い衝撃と感銘を受けました。


笠原さんは1996年(73歳)にサイレント・キーとなりましたが、昭和30年代から平成にかけて、アマチュア無線の黄金期に輝き駆け抜けたOMを長く記憶にとどめたいと思います。

(JA1FUY/NV1J) 2025/03/13)

 
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