JA1CLN、笠原 豊さんは国際電信電話(略称KDD)の国際間通信のプロフェッショナルとして、欧州や南米など外国勤務が長く英語、スペイン語などに堪能です。KDD退職後、JARL国際課長に就任、IARU第三地域総会などに尽力、そして退職、次に東京・渋谷の貿易会社に勤務する頃、友人ら10名と共に中国の福建省福州市を訪問して市内の中学や少年宮に5つのクラブ局に機材を援助、技術支援を行いました、これをきっかけにして中国語の習得に意欲を示し語学学校へ。傍ら体調に合わせて週3日から1日の勤務へ減らしてリタイアに至りました。声のかすれから咽頭ガンを疑い1995年12月検査入院、正月には自宅へ戻り静養しておられました。

桜が満開の頃、笠原さんの体調も安定して外出が可能と夫人(ex JA1CLM)から聞いて、伊豆方面のドライブへ誘いました。東京・練馬に笠原さんを迎えに行き、折から来日中のBA1CY周海嬰さんと合流しました。

車は東名高速道から小田原厚木道路を経由して伊豆半島へ。笠原さんが中国語で「私の中国語はどうですか、わかりますか?」と話しかけると、周さんが「笠原さんの北京語はとてもお上手です」と、皆に分かるように英語で応じて語学教室のような雰囲気になりました。伊東のリゾートホテルに仲間が集ってきてにぎやかになりました。記念写真を撮りあいQSLカードを交換する中、JA1ZNG(当時・モービルハムアマチュア無線クラブ)の無線設備を部屋に運びシャックをこしらえました。アンテナは14MHzと21MHzのツェップを張って同軸ケーブルを室内に引き込み、オペレートは食後の楽しみとしました。
シャンパンで乾杯して和やかな夕食会が始まりました。周さんと笠原さん、それに松本正雄さん(当時・JARL理事、JA1AYC)、川島健太郎さん(当時・神奈川県支部長、JJ1HKS)、岡田圀昭さん(MH筆者、JA1CVF)、編集者(JA1FUY、JF1GUQ)2人の計7人です。日本語・英語・中国語が飛び交うにぎやかなミーティングになりました。夕食の後は一部屋に集り、おしゃべりに興じました。誰かが笠原さんに「マジックを見せて」とせがみました。国際課長に就任早々、ニュージランドのオークランドでIARU第3地域総会に参加した時、さようならパーティーで各国代表団員を前にしてマジックを披露しました。ジョークをまじえた流暢な英語に拍手喝采を浴び、愛称のケーシー・コールが沸きあがりました。
仲間からのリクエストに応えて立ち上がり、意味ありげに片目を瞑って上着のポケットから一本の白いロープを取り出し、鮮やかな手つきで切ってはつなぐ妙技を披露しました。アマチュア仲間6人のための独演会です。笑みを絶やさずカードの演技に進みます。間近に見ていてもタネは全く分かりません。オークランドでのさようならパーティーの再現でした。
それから数ヵ月後、笠原さんの訃報が届きました。お悔やみに行って敬虔なキリスト教徒であったと知りました。日曜日は必ず教会で神父さんの説教を熱心に聞いていたといいます。病院で亡くなる前日、医師を呼んで別れを告げ、神父と一緒に旅立ちの聖歌を唄い「幸せな人生だった」と感謝の気持ちを伝えました。夫人が見守る中、明け方に永遠の眠りにつきました。葬儀では「遺言により大学病院へ献体した」と子息から披露され、参列者は衝撃を受けました。
自作全盛時代のアマチュア無線家達の間では『不用になった無線機/パーツ類は特別に高価なものを除いて、熱心な後輩・入門者の研究・自作援助用に提供するのが真のアマチュアOM精神』という風潮がありました。そんな旧き良き時代のアマチュア無線を想い出させるように、人生の最後に身を呈して伝統的アマチュア精神を貫かれた笠原さんの見事なまでの身の処し方に、強い衝撃と感銘を受けました。
笠原さんは1996年(73歳)にサイレント・キーとなりましたが、昭和30年代から平成にかけて、アマチュア無線の黄金期に輝き駆け抜けたOMを長く記憶にとどめたいと思います。
(JA1FUY/NV1J) 2025/03/13)
XY1HTとXA0A DXペディションで知られたHS0/G3NOMレイさんが2004年10月、心臓発作を起こしてバンコクの病院へ、意識が戻らないまま集中治療室で年を越しました。2005年1月10日、DX-CHATに「G3NOM/HS0ZDZの健康」と題するレイさんの回復を伝えるChrles Harpole氏の投稿を見つけました。
レイさんを見舞ったチャールズさんによると、彼の妻と娘さんによる手厚い看護が回復を助けているといい、のどにチューブが挿入されて話せる状態にないが、握った左手に力がこもり、レイさんの目の動きと顔の表情から意志が感じられ、回復に期待が持てるという内容でした。

英国人のレイ(Ray Gerrard)さんは、ブリティッシュ・テレコムのアジア駐在員としてバングラデッシュのダッカを拠点に、タイのバンコクへ出張して仕事をこなしておられました。そして、タイ人のロワン(Lawan)さん(E21UHL)と結婚しSEANETコンベンションにも夫婦で参加していました。 レイさんは定年退職を機にバンコク郊外に自宅を構え、庭にアンテナタワーを建て素晴らしいシャックを作りました。一方、タイのアマチュア無線組織「RAST」(Radio Amateur Society of Thailand の相談役として、国際的な渉外を引き受けてRASTの顔として活躍中でした。

観光大臣へアピール
1994年9月19日、G3NOMレイさん、JR0CGJ清水 孝さん、JA1UT林 義雄さんの3人がミャンマーへ入国、当時の観光大臣・カウ・バー将軍へのデモストレーションでXY1HTを運用し、私JA1FUYと9V1ZD Boo Balan氏の2局とSSTVによる交信を行いました。後にレイさんから絵葉書による直筆のQSLカードを受け取りました。

粋な出会い
ラオスの首都ビエンチャンへ向かうDXぺディションの一行は、経由地のバンコク空港に降り立ちました。今回はラオスのKPL(カオサン・パテト・ラオ)国営通信社の招きでラオスの首都ビエンチャンにアマチュア局(XW8KPL)を設置して技術指導を行うかたわら、DXサービスを行うために線機材を成田空港から持ち込みました。
入国審査を終えてバゲージ・クレーム(Baggage Claim、手荷物受取所)へ。搭乗機のフライトナンバーが出ているターンテーブルでバゲージ(旅行用の小荷物)のピックアップに全員が待機していました。大型のトランシーバー、DC電源、アンテナや同軸ケーブルなどかさばるバゲージが10個にのぼりました。ターンテーブルから流れてくる荷物を1個また1個と引き上げているとトランシーバーの梱包の上に一枚のQSLカードが載っているのに気づきました。
あれっ!誰が載せたのだろう? G3NOMを確認、手荷物が流れてくる上手の方にG3NOM Ray(レイ)さんがいるようだ。仲間に告げると、全員が辺りを見回した。この反応を楽しむ紳士がG3NOM レイさんでした。トランシーバーの上にQSLカードを置く、ハムなら気づくに違いない、ターンテーブルの流れを見ているとバゲージを取り上げる人達が目指す相手という読みに一同納得する一幕でした。
レイさんはDXペディションの一行がバンコクに到着する時間に合わせてバングラディシュからバンコクへ出張してきました。日本人の一行とは初対面なので空港(ドン・ムアン)での出会いが一枚のQSLカードが取り持ってくれたことに一同感激しました。 (JA1FUY/NV1J) 2025/03/07
ある日、職場へ一本の電話が入りました。「BA1CYの周海嬰です。上海のオールドタイマーのBA4AB沈さんから紹介されました。」私(JA1FUY)と笠原さん(元JARL国際課長)JA1CLN(SK)は縁があってオールドタイマーの集まり上海電子学会BY4AOMの海外会員に推挙されていましたから代表のBA4AB(ex C1MK)沈明鋼さんの紹介なら即座に会うことにしました。ただ、この時はまだ魯迅の息子とは知らなかったのですから・・・。
周海嬰さんが来日されるとメディアが放っておきません。"魯迅の一人息子"のブランドはかなりなもので、周海嬰さんは長女の寧さん(東京都武蔵野市在住)が週刊誌のインタビュー記事に登場することがたびたびありました。新橋の阪急交通社に勤めていた同僚の男性と結婚し、双子の女子を設けました。この時、周海嬰、許広平夫妻が来日した武蔵野市の娘・寧さん宅へ滞在されていました。
周海嬰さんは1929年9月に上海で生まれた。北京大学物理学科で無線工学を学び、CRSA(中国ラジオスポーツ協会)の顧問を歴任しました。1940年代開局のオールドタイマーとして中国でもっとも有名なアマチュア無線家として知られています。中国人民政治協商会議全国委員会委員、そして中国国家広播電影電視総局(放送・映画・テレビなどメディアを統括する機関)の幹部を務めた。来日時にクルマのキャブレーター洗浄剤を探しておられましたので調達のお手伝いをしました。早くから自家用車を持っておられましたので経済発展の著しい今と違い特別なお立場の人という印象でした。
中国を代表する文豪、魯迅(1881-1936)の一人息子、周海嬰(Zhou Hai ying)ジョウハイインさんが自他共に認めるアマチュア無線好きと中国で広く知られています。BA1CYはオールドタイマーを代表する局としてBA・BYネット(14.180MHz)でアクティブでした。著書に「魯迅と私の70年」などがあります。

魯迅(ろじん)は"阿Q正伝"や"狂人日記" など改革を意識した多数の短編小説を発表して、暗黒時代の中国の革命家達を勇気付け尊敬を集めています。上海の虹口公園内に魯迅の墓と共に出身地の紹興の民家を模した簡素な2階建ての魯迅記念館があり、直筆の原稿や遺品などを展示しています。墓前には本を手にした魯迅の坐像を見ることができ、北京の故居(元の住まい)が記念館として多くの来場者を集めていると周海嬰さんから聞きました。周さんは「この記念館の一隅をアマチュア無線のクラブ局にしたい」と希望しながら、いまだに許可が下りないと嘆いておられました。

日本滞在中、アマチュア無線の操作・運用ができないことから周海嬰さんをお慰めするために、アマチュア無線の友人たちは静岡県の伊東温泉にお招きしました。当時、JARL国際課長を退いて悠悠自適の笠原 豊さん(ex JA1CLN)にも加わっていただきました。伊東温泉には無線機材を持参してJA1ZNG(当時、モービルハム・アマチュア無線クラブ、現、QTC-JAPANハムクラブ)を移動、集まった仲間でCWやSSB、スロースキャンテレビ(SSTV)を運用しました。周さんは傍で羨ましそうに無線操作を眺めているばかりでした。日本の法律では無線の運用ができないのでがまんして頂くしかありません。日本の有資格者が中国を訪問して所定の手続きを済ませるとクラブ局の運用ができました。中国人有資格者が日本で無線操作ができないのは片手落ち、肩身の狭い思いに駆られました。



上海電子学会の代表・沈明綱さん(BA4AB、ex C1MK)から笠原さんと私(JA1FUY)を海外会員に推挙すると提案があり、満場一致で決定された光景を昨日のように思い出します。1991年、BZ4AA、BZ4AC、BZ4AD、BZ4CA、BZ4CH・・・が参加する中、個人局が蘇る前夜の歴史的なミーティングでもありました。しばらくしてプリフィックスがBZからBAに変わり本格的な個人局の誕生となりました。沈明綱さん(BA4AB)と許毓嘉さん(BA4CH)らBY4AOMの幹部が北京の周海嬰さんと連携して、個人局の開設を当局へ強く推進しておられたと後になって知ることとなります。


2011年4月7日午前5時36分、中国の文豪・魯迅の息子である周海嬰さんが、入院先の北京の病院で永眠しました。享年81歳。
(JA1FUY/NV1J)2025/02/27