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JA1EYL 山田千鶴恵(やまだ ちづえ)さんが免許を取得されたのが1960年、夫の一夫さんもJA1EYMを同時に開局しておられます。当時ハムになられた動機を「新聞紙上でハムを知り自分も空で全国とお話がしてみたい。」同年10月見事に国家試験にパスされて11月に開局されました。


その後、山田さんは1957 年に JA1AEQ/阿部芙美さん、JA1YL/菅邦さん、JA0EC/小林きみさんが設立したJLRS(Japan Ladies Radio Society)へ入会し、後年、会長に就任した経歴を有します。


ここに掲げる写真は2010年4月3日、DF2CW(ex JA7HM)壱岐邦彦氏が率いるJAIG(Japanese radio Amateurs In Germany)ドイツ訪日団が東京にやってきて日本のハムと交流しました。この時JLRS 元会長のJA1EYL山田千鶴恵さんが歓迎の挨拶をしましたが、50年ぶりにホリゾンタルクラブで一緒だったJA1CVFとJA1FUYが山田さんと再会してDF2CW、JF1GUQを交えて撮った一枚がこれです。


↑左からJF1GUQ JA1CVF JA1EYL DF2CW JA1FUY 2010年4月3日、東京・上野精養軒にて撮影。

↑JA1EYL アイボールQSOカード
↑JA1EYL アイボールQSOカード

Horizontal Club 1961年5月号(N0.3)「主婦とHAM」を発表し、主婦のアマチュ無線への向き合い方を考察しておられますので、その記事を抜粋して参考に供します。


昨今のレジャーブームで主婦のレジャーの利用も数々あるが、ハム等井戸端会議や(お空の井戸端会議かも知れぬが)デパートめぐりに費やす時間を未知の世界開拓に当てるとはFBな事と自負し始めたが、お花や洋裁の如く、それによって身を立てる事も可能というのでなく、あくまで趣味と研究に止まるものであるから そこに限度があり主婦の趣味としては難しい点もあるが、仲間入りした上は多くの知識を得またたしなみたいものと皆様方の御指導ご理解をよろしく。(何だかPRみたい) OMの方々のお世話にならず故障の一つも直したい。より良きものを作りたいと本を読んでも独学では理解しにくく、気軽に行ける講習会でもあったら是非時間を作ってと念願していますが・・・・。


(JA1FUY/NV1J) 2025/01/23

 

JA1GW(ex J2IC) 日比五郎(ひび ごろう)さんにお目にかかったのは東京銀行本店勤務の村上 昭さん(JA1DOU)が主宰するハムグループに誘われて箱根・仙石原にある保養所にて、フィールドデ―コンテストに参加した時と覚えています。初対面の印象は戦前から活躍されたOMなのに気さくで温厚なお人柄に魅了されました。移動運用の合宿では真夜中に大涌谷(1,044m)へ上り、人気のない駐車場から51MHzFMを運用して東京都内の友人と交信を楽しみ、日中は芦ノ湖スカイライン、箱根スカイライン、伊豆スカイラインなど風光明媚なドライブを無線交信と共に満喫しました。


↑日比さんの車載機はタクシー無線の払い下げ品ナショナル製FM-60-10 (54MHz~62MHz)を51.00MHzに改造してニッサン・セドリックに搭載。 この頃、車載無線機の花形だった米軍放出品が品不足となり、これに代わりタクシー無線の払い下げ品が各地に出回りはじめました。日比さんは東京都足立区のご自宅から神奈川県箱根仙石原の東銀・保養所へ駆けつけました。保養所に到着すると休む間もなく、送受信の周波数に若干のずれや受信感度の低下に違和感を覚えて、無線機を車から降ろして点検・調整を始めたのですから、その熱心な姿が印象に残りました。


当時、JMHC(日本モービルハムクラブ)メンバーの搭載機種別使用率で、70%以上の高率を示したナショナル製のFM‐60‐10、周波数は54MHz~62MHzあるいは62MHz~68MHz用の2種類があり、水晶制御周波数変調方式の無線機でした。 1963年9月、JMHCはこれまでの51MHz 1チャンネルからサブチャンネルに51.2MHzを提案しました。これ以降、多チャンネル化と全国的なFMモードの普及に拍車が掛かりました。


↑東京銀行本店ハムグループの皆さん。左から3人目がJA1GW、右からJA1FUY、JA1DOU。51MHz FMを車載して箱根ターンパイクやスカイラインのドライブを楽しんだ。


JA1GW 日比さんのQSLカード
JA1GW 日比さんのQSLカード

日比さんは街の電気店を営む傍ら趣味のスキー滑りが嵩じてスポーツ店を開いたと聞きました。一方、JA1OS柴田俊生さんとJA1GW日比さんはJMHCの普及を目指して全国各地を回りモービルハムの普及に貢献しました。(JA1FUY/NV1J) 2025/01/16

 

1980年頃、東京都豊島区・駒込の本郷学園(幼稚園、中学校、高等学校)に隣接する閑静な邸内に7MHz帯のダブレット・アンテナ設置を友人の四条公信さん(JA1NLQ)に誘われて松平頼明邸を訪ねました、なんと松平氏は高松藩最後の藩主(11代) 松平頼聡の孫として生まれた13代当主・松平賴明氏(1909-1990)はJ2II、JA1JAMのコールサインを持つ熱心なハムでした。


アンテナ材料と同軸ケーブルなど一式を持参して松平頼明邸を訪ね、隣接するゴルフ練習場のネットを張るタワーと屋根から突き出したポールの間にアンテナを張った思い出があります。当時体力に自信の持てる50歳代でしたから屋根に上るのも、またゴルフのネットを張るタワーによじ登るのも躊躇がありませんでした。午後一番に始めた作業は夕刻には

高さ20メートル、7MHz帯1/4波長ダブレット・アンテナが完成しました。


発注済みのYAESUトランシーバーの到着を待ち、後日、アンテナの調整を兼ねて一人で訪ねることとなりました。7MHz SSBでテストすると面白いように交信が進み、理論上の利得は2.14dBi(2.15dBiとされる場合もある)を実感できる出来栄えでアンテナの仕上がりにご満足いただけました。


当時、松平頼明氏は本郷学園理事長、日本ボーイスカウト理事などの要職にありご多忙と見受けましたが、昼食をご一緒いただき「ざるそば」をご馳走になりなりました。高松城の話に触れると、『高松に行くと、家老など重職の子孫が迎えてくれる。』 

『高松城は昭和29年、城跡を管理する財団法人松平公益会から高松市に譲渡した。』 

『水戸徳川家と高松松平家は互いに養子縁組を繰り返した。』等々、貴重なお話を披露してくださいました。


昭和20年(1945)妻子と共に高松に移住し、高松城址内 披雲閣の2階に5年間ほど居住したと聞きました。平成24年(2012)披雲閣(旧松平家高松別邸)が高松城址と共に重要文化財に指定されました。


その後、JARL技術研究所のお披露目等で何度かお見かけしましたが、1990年2月23日死去。享年80歳、東京の護国寺で葬儀が行われ、歴代の藩主が眠る法念寺(高松市仏生山町)に葬られました。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/30


↑JA1JAM(ex J2II)松平頼明氏(1980年頃)


↑松平氏の居城、讃岐国・高松城の良櫓(うしとらやぐら)

 
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