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執筆者の写真JA1FUY/NV1J

忘れえぬ人々(2)「JA1DRA(ex J2IA)藤尾八十治先生」

ホリゾンタル・クラブ報、昭和41年(1966)1月号「マイシャック」JA1DRA(ex J2IA)藤尾八十治氏宅への訪問記が載りました。お住まいは甲州街道と青梅街道を結ぶ中野通りのほぼ中間、中野区富士見町、都立富士高校のそばに位置します。石段を上り門の右にパンザマストが立っています。ブレーキ付きローテーターの上に50Mc  3エレメント八木アンテナが乗っていました。(注:Mcメガサイクル。当時の周波数の単位。現在はMHz)


JA1DRAのシャックを見渡すと三和NR-408受信機、 CC-6、SP-5、YAESU FL-10/40、TRIO TX-388S、50Mc 送信機3台、7Mc 送信機3台、変調器1台、ほかに受信機2台、周波数計BC-221-AKなどが並んでいました。


昭和41年(1966)シャックでくつろぐJA1DRA 藤尾八十治氏(58歳) 藤尾先生は私の師というわけでなく、当時、教師として技術系専門学校に勤務しておられたので仲間は敬意を込めて藤尾先生と呼んでいました。先生は昭和20年(1945)以前にJ2IAのコールサインで活躍しておられますし、QRA BOOK 1932の「受信局」のリストにお名前を連ねるオールドタイマーでもありました。

因みにQRA BOOK 1932の[J3 逓信管内]にはJ3CC梶井謙一氏やJ3DD笠原功一氏ら神代のお名前&コールサインを見付けて飽きません。


戦後はラジオ製作誌の「電波科学」、「電波技術」、「電波実験」「CQ ham radio」等で「だれにでもできるHi-Fiラジオとアンプの作り方」〈1956〉、「ラジオの工作」(1956)、「TX388の出力を4倍にする方法」「FETによるトラボルの製作」など多くの記事を発表しました、中でもA6判の書籍「テスターの使い方」はベストセラーとなりました。一方、昭和39年(1964)、ホリゾンタル・クラブの有志によりJARL理事選への立候補を強く要請し、クラブを挙げて応援して見事当選に漕ぎつけました。昭和39(1964)から昭和44年(1969)まで3期6年間、JARL理事を務められました。


7Mc帯トランシーバーに興味を持たれた藤尾先生が「連名で記事を書いてみないか?」と誘ってくださった。恐れを知らない駆け出しハムは一晩で記事を書き上げて先生に提出、添削を経て出版社へ届けられました。後日、掲載誌の「電波実験」誌を見ることとなり、雑誌デビューの記事を読み返して感動したのは言うまでもありません。


「電波実験」は電波実験社が発行元で、創業者の増田正誼社長と藤尾先生は昵懇の間柄でした。増田社長は電波技術社の前社長を歴任され、その前は「電波科学」編集長、戦前は逓信省のお役人でありました。記事掲載を契機に大学の夏休みに同編集部でテレビやラジオの回路の下図を描くアルバイトに出かけました。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/06

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