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ex JA1BBO(JA1IO)小林知司さん
ハムへの道のり

ホリゾンタルクラブ会報1962年AUG No.12にJA1BBOの手記「或る新米ハムの生い立ちの記」が掲載されました。それから64年余の時を経て、戦後アマチュア無線の再会間もない様子が生き生きと描かれた手記が発表されました。JA1KC小宮さんが立ち上げた女性対象の「ハム女子大」の運営&活動に小林さんも加わっていました。

戦後アマチュア無線が再開されてからもう早くも、10年になります。10年一昔と言われますが、全く早いものと思います。その間のハム界にも色々種々のつきない話題がありました。小生はいわゆる戦後はハムの一人で、昭和28年にライセンスを取りましたので、今年で丁度9年目ということになります。考えてみると今日迄良くもまあ飽きせずにやってきたものだと思っています。

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ホリゾンタルクラブのミーティングにゲスト参加のJA1BBO小林さん(後列右から3人目)
前列左からJA1CVF、JA1GXV、JA1JKT、葛間、JA1EYL、JA1DRA
​後列左からJA1FWS、JA1IVY、細川、JA1HYA、JA1DOW、JA1GDS、JA1HWM、JA1BBO、JA1FYH、JA1FUY (1962年AUG No.12)より転載

模型好きが高じて

小生がこれをおっぱじめる動機というものを、この時分から何か機械のような物や細かい仕掛けのあるものには随分興味があったらしくて、薄々覚えている事で確か我家の大切な目覚まし時計を、アチコチいじくっているうちに、バラバラにブッコワしちまったんで、その時オヤジのカミナリが小生の脳天に落雷したのが致命傷じゃねぇかなと思われるフシあります。
 

つまり御幼少の時分すでに頭へきたわけですね。その頃、模型製作の雑誌を夢中で読んでは電車の模型を組立て畳の上で部屋中レールを並べては毎日ガーガーやっては叱られたり、モーターボートの模型を作って近くの貯水池に浮かべて遊んでいるうちに、足を滑らせて落ちてオフクロを青くさせたりしたものです。(何しろ泳ぎは今もって下手で、もうちょいとでアブネェところしたけど、おかげで悪運強く生き伸びている訳です。)

中学時代に同じクラスに小生と同じような奴がいて、そいつはラジオやエレキの事は良く知っていたので、いつしか朱に交われば赤くなる例えでラジオに病みつきになってしまいました。それからスパイダーコイルをグルグル巻いて、鉱石ラジオをデッチ上げて、レシーバーからかすかに何か聞こえた時には嬉しかったものです。
 

その頃からラジオ雑誌に読みふけり真空管式のラジオが作りたくなって、UX-111Bとかそういうタマを使って単球電池式ループアンテナ使用のラジオを、組み立てたものです。その頃は今のように積層乾電池がなく、単三を何個もシリーズにつないで使ったりしました。

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当時我家のラジオは24B-26B-12A-12Bというラインナップでした。その時分では最新式?のRXだったらしく、オヤジは神棚みてぇな所にのっけて後生大事にして聞いていましたが、そのラジオが或るとき調子が悪くって、しまいにはプッツリ聞こえなくなってしまった時のことです。いたずら盛りの小生が「直して見せよう」てぇ積りで、しまいには壊してしまったのです。
 

さあ大変神様と同格のラジオが聞こえねえとなるとおだやかでない。とたんに怪しくなったオヤジの雲行きに直ちに警戒警報発令・・・必ず何とかして見せると確約して、とにかくSPが鳴るエリミネーター式(AC式)を苦心の末完成したのが42シングルのパワー検波という奴で、それに6半のダイナミックSPをつけたシロモノでしたが前のスーパーボロRXより、はるかに調子が良くて音質もよかったものです。

​ラジオ作りにはまる

さてそんなことから病みつきなってお定まりのコースを辿りました。並四、高一、五球スーパー、電蓄、テレコ、Hi-Fiアンプからワイヤレスマイク迄色々やっているうちに、2バンドラジオで短波を聞き始めてからBCLに凝りだし、ベリカードを集めることに興味が移りました。そして始めてサイゴンの放送局から航空便で返事をもらってから、専らBCLとしてワッチを続け、それ以来、昭和27年頃までの3年間に、78か国以上のベリカードを集めて一人悦に入っていました。
 

その時分の二、三のラジオ雑誌のDXコーナーにBC-DXの記事を毎月のように載せていました。おかげで高校時代はほとんど学校の月謝を払って、弁当を運んで食いに行ったようなもので、肝心の勉強の方はずうっとDXの方に向かっていました。今だからもっともらしいことをいいますが、」とにかく若けぇ時分に何か一つのことに熱中するのはいいが、やはり学生時代には勉強が第一にすべきで、いくら面白いからといってもあんまり凝りすぎるのはBFだと、悟りを開いたときはもう遅かりしし由良助でした。

さてそんな塩梅でしたから人付き合いは悪く、映画もほとんど見ないし、レクリェーションにも出かけず、専ら家へ帰るとカバンを放り出して、シャックでガサガサやり始めメシのブレークがかかっても、解っちゃいるけど止められねェの口で、夜更かしの朝寝坊と来たものです。(全くこんなこっちゃ困りますな)
 

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ところがもっと質の悪い病に取りつかれたのが、昭和27年の夏でした。2バンドラジオで短波を漁っているうちに、7MCのところでJA1AB、JA1AC、JA1AE、JA1AL、JA1AS、JA1AT、JA1AXの連中の楽しそうにラグっているのに気が付きました。「はて こりゃあなんだい?」 何か面白そうなことを言っているな。「これがアマチュア無線というものかい、これは面白いや、よし俺もやってみよう。」

だが、「一体どうするんだい、何か試験を受けて免許をとるのかい」厄介なことだがしょがねぇや。それから「無線と実験」の解説を夢中で読んだものです。RXの事はそれまでの実験で大体解るけどTXの事は全く無知でした。ましてや法規の事となるとチンプンカンプンとにかく何でも丸暗記だいという訳で、忘れもしない昭和28年1月に神田の専修大学の試験場へおっかなびっくり出かけていきました。さて行ってみると定刻30分前にもう俺と同じことをしてぇ奴が、驚いた。へぇ、ずいぶんいるなぁてぇしたものだな。奇妙な感心をしたらとにかく試験を受けたのです。
 

後で解ったのは小生の悪友でJA1KC小宮幸久さんもあの時一緒に受けてまぐれ当たりに受かったらしい?のです。その当時の試験は1級と2級だけで小生は勿論2級を受けました。試験は1次試験にパスした者だけ、1か月後の2次を受けられるようになっていました。法規問題は〇×式で、1次2次共運良くパスし早速免許証の交付を受けました。その頃の免許手帳は今のようなケチ物とは異なり、表紙は大きく厚く紺色に金文字で、中の事項はタイプ印書で、英文と和文と両方で記入されていたのですから、貫禄がありました。

JA1IO 免許下りる

それを手にした時はいい気分でした。(この頃、免許有効期間が5年でした。)ところがそれからが大変で無線局の免許申請のやっかいななこと、いまのように印刷されたものにちょこちょこと書き込めばいい、という便利なものでは全然なかったのです。各自で一切を書くのです。それを正本1通と副本2通の計3通で書式は、一般の商用無線局の申請と全く同じですので全く頭にきてノイローゼになりそうでした。
 

一週間位かかりやっと書き上げ、書留便で電監へ送ってから毎日コールの下りるのが楽しみでした。ところが相手はお役所なもので、約2か月位はどれほど待っても、うんともすんとも音沙汰なしでした。とうとうたまりかねて電話の催促で、やっと昭和28年6月30日付けでJA1IOのコールサインで免許が下りました。早速、かねてよりでっち上げたTXで第一声を怒鳴りました。

その時は全くうわの空でCQを出したものです。ガマの油みてぇな冷や汗を流して、何をしゃべったか覚えておりません。(この辺は誰でも同じですな) ところが第一声を発したものの20分とたたぬうちに近所へのすごいBCI,とたんにどえらい勢いで怒鳴り込まれびっくり仰天しちまいました。

BCI対策に汗だく

それから近所を調べるとなんと20軒位もBCIを起こしていることが解ったので大慌て、汗だくでトラップを作っては付け、とにかく一応収めましたが、BCIには全く開局早々えらい苦労しました。その時分の免許は7MCといっても7050と7087.5kcの2チャンネルのみで当局は10mのバーチカルアンテナをオッ立ててカウンターポイズと共に、オンジエアしたのですが、何しろ皆同じチャンネルで物凄いビートを作るので、マンズ飛び跳はね工事おびただしく色々研究した結果、アンテナの形式による影響が重大であることに気づいたものです。それから定インピーダンスダブレットFD,といろいろなものを実験し最後に現在の75Ω同軸饋電の標準ダイポールとなった次第です。

JA1BBO開局

JA1IO局は固定局として、昭和30年10月20日までにQSOした局2千400余局、JCC  No.1始め賞状10数枚を稼いで閉局(BCIその他の事情による)しました。それから5年半後の昭和31年4月11日付けで移動局として別にJA1BBOを開局し、それ以来今日まで、ずっと死ななくちゃ治らない後天性道楽無線病は、病状増々重く悪化の一途を辿りつつあります。

なんだか小生の開局当時の道楽話となってしまいましたが、誰でもハムライフには思い出すこともあろうと思います。最後に小生の生い立ちの如き育ちが悪いと親泣かせの始末におえない、箸にも棒にもかからない代物が出来上がります。世のハム諸君はくれぐれもそんなことのないように、老婆心ながら申し添えておきます。ではさようなら。Tommy

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2016年3月10日 読売新聞の記事「時代の証言者」
全文がPDFで見られます。

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