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ー書庫の中からー

菊谷秀雄 著「検見川無線の思い出」

自費出版 平成 2 年 (1990) 3 月発行

いきくにひこ 

1990 年のクリスマスにプレゼントとして、菊谷秀雄先生から頂 いた自費出版の本です。この本は菊谷先生が 90 歳のころか ら書き始めた自叙伝で、当時親しくしていた方々に贈呈され たようです。
 

菊谷先生は 90 歳になられたころから、自叙伝を執筆され、そ れは第1編から第 3 編まで構成されています。第 1 編はご家族のことをしたためられていたようですが、それは未公開のようで、 公開されているこの本の中にはその第 2 編と第 3 編が書かれ ています。そして第 2 編には検見川送信所の所長として活躍された約 10 年間の記録で、それを第 1 章に検見川無線電信送信所の開局、第 2 章に無線電話機の開発、第 3 章に海軍軍備縮小記念放送、として纏められています。

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「検見川無線の思い出」菊谷秀雄著
菊谷秀雄先生から頂 いた自費出版の本です

検見川送信所とは、現在の千葉県検見川町に、当時の逓信省が 海外との電報の送信施設として大正 12 年(1923)に、逓信省から提案された、対欧州、対外地用大無線局建設案が帝国議会で承認されて建設が始まったものです。 竣工したのは大正 15 年(1926)で、業務開始はこの年の 7 月 1 日 となっています。

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菊谷先生が着任されたのは落成式の翌日だったと述懐されています。そしてそれまでの長波送信機はアレキサンダーソン長波発電機や電弧式発振機で、大いに妨害を与えていたのが、ここ検見川送信所の送信機は、当時最新型で英国マルコ二―社製の真空管式だったそうです。その一つは入力 50kW の送信機で波長が 8200m、そして第 2 装置は入力 15kW で波長 5500m を使っていたと書かれていました。そのほかに 2 つの日本製の中波の送信機が設備されていたそう です。

当時の日本での真空管技術はやっと受信用の真空管が作れたばかりだったそうです。そのような技術背景からマルコに―社の真空管式は、当時としては近代的であったのでしょう。当時は受信所と一体をなすため、岩槻受信所と共に整備され、電報の送受は、東京市麹町区大手町にあった東京中央電信局の通信所からの操作される、中央集中方式が初めて採用されて当時としては最新式の通信 システムだったそうです 。

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初代所長・菊谷秀雄氏(きくたに・ひでお)氏
1899(明治32).5.5~1992(平成4)
東北帝国大学卒業後、逓信省に入省。
1926年(大正15年)4月の検見川送信所開局とともに、26歳で初代所長に着任。
逓信省退官後、芝浦工業大学教授に就任。
無線・電波・空中線に関する著書多数。
JA1BVS開局。
1992年(平成4年)没。享年92歳。

   ー検見川送信所を知る会HPより

この編の中で、私の視点から、菊谷先生は 2 つの大きな出来事を記録されていました。 その一つは、当時長波全盛の時代に、菊谷先生のグループが自力で短波の無線電話送信機を設計 製作して J1AA のコールサインで「こちらは J1AA TOKYO JAPAN」とアナウンスをして、日本民謡等のレ コード放送をしたのでテスト送信として続けていたのだそうです。そうしたら世界各国から受信レポートが来 たので QSL カードの発行の為に印刷から発行投函まで自費で行ったので大変な出費となったと書いてお られました。

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開局当初の局舎(検見川送信所職員OB提供) 検見川送信所を知る会HPより

このJ1AAは検見川送信所の自作、純国産の短波送信機から発信されたもので、幻のコールサインとな ったようです。因みに、菊谷先生は JA1BVS のコールサインで戦後ライセンスを取得されています。 昭和 2 年(1927)頃は、丁度長波の大電力無線電話が、ロンドンとカナダ、ロンドンとアメリカが開通した時代でしたが、同時に当時のアマチュア無線家たちは短波を使った小電力無線電話で交信していた時代でした。

またこの年の 5 月にはベルリンのナウエン送信所(今でもここにこの送信所があります、筆者注)からの電波は20.02MHzを使って岩槻受信所で 1 週間にわたって受信したら、昼間だけは明瞭に受信できたと いう結果が出たとのことです。このことから検見川送信所では 15.76MHzのビームアンテナを建設して 6 月 20 日から通話試験を開始して、ベルリンと東京の通話が大成功だったと書かれています。

 

二つ目の出来事は、海軍軍備縮小記念放送です。これは昭和 5 年(1930)の 10 月 27 日に日、英、 米間で締結された海軍軍備縮小条約が締結されたのを記念に3 国間で交換放送をやろうという計画が持ち上がり、当時の逓信省上層部からの指令で急遽短波を使った電話回線を設備せよとの指示が 下されました。それは交換放送の 1 週間前と言う無茶な計画でした。

それでも菊谷先生を長とす る検見川送信所は一丸となって、アンテナの設計から建設まで完了させ、当時の英国マクドナルド首 相、米国のフーバー大統領、それに日本の浜口首相が演説して NHK、JOAK は愛宕山の送信所から 放送され成功だったと記録されています。使用した周波数は7.88MHz だったそうです。

アメリカ側は当時の日本の技術では無理だろうとの見方でしたが、J1AA の短波電話無線機は問題なくこの難関を打ち破りました。当時はまだまだ未知の世界であった短波帯に挑戦して、40 メーターバンドでロンドンとニューヨークそれに東京を結ぶ 3 極交信を成功させた事実は歴史に残ることでした。
 

そして菊谷先生はこの項を終わるにあたり、次のような言葉で結ばれています。
「生き残った私が 90 の齢を越して、思い出を書いている。何時かは死を迎える身でも、この思い出がいつ までも、今は無き検見川無線送信所を語ってくれるだろう」と。

 

第 3 編は思い出の赤毛布(アカゲットと読みます)と題してアメリカ出張を命ぜられて横浜からアメリカの客船「プレジデントフーバー号」でサンフランシスコに下船するまでの船内での、ただ一人の日本人として英語だけの生活が面白く描かれています。
 
菊谷先生は昭和 8 年(1933)12 月 23 日皇太子殿下の誕生日(現在の上皇陛下、筆者注)に上司 に呼ばれて米国欧州出張命令を受けたと書かれています。その理由は「日本と米国間で、いよいよ短波の無線電話を開通することに決まったから、米国の装置を調べてくるように。出発は 12 月 31 日正午横 浜港出帆の日本の貨客船に乗って行け。帰りはヨーロッパ廻り、3 月 31 日までにシベリヤ鉄道で帰ってくるように。」と言う命令を受けました。

このとき先生は 1 週間しかない旅行に準備を考えたときに、本 当に可能であろうかと迷いました。日本船の指定を受けたものの、次に出るのは秩父丸で 1 月 16 日 でしたから、時間のロスを少なくするため 1 月 5 日発のアメリカ船籍の「プレジデントフーバー号」に乗船で きる許可を得て、予定通り船の人となりました。
 
外国旅行といえば、今日では航空機を利用するのが当たり前ですが、当時はそのような交通手段はなく すべてが客船によるものでした。ですから外国に旅行するのは「洋行」を言われていました。 この項では約 2 週間にわたる客船内での生活は、即英会話による生活環境でしたから、大いに勉強に なり、サンフランシスコ上陸の心の準備が出来たと書いておられます。先にも書きましたように、1 等船客 ただ一人の日本人であったことから、他の船客から大変興味をもたれたと書いています。

この章の最後に、サンフランシスコ入港前に船内で入国審査が行われ、その後接岸すると出迎えの人達 が沢山波止場に来ていた情景を書かれています。ここを読んで私は、最初に訪日した時もシベリヤ経由でナホトカから横浜に、当時ソ連船籍の船で 接岸したとき、菊谷先生は私を出迎えてくださいましたが、多分先生は初航海の様子を思い出さ れていたに違いありません。
 
この本の中には会話の内容まで詳細に書かれていて、読む人を昨日起こったように書いているのではないかとの錯覚を覚えさせます。それは菊谷先生の記憶力もさることながら、先生は毎日詳細な日記を書いて おられ、それをもとに昔日を思い出されたのでしょう。

 

この様にまめに記録をされる先生ですから、検見川送信所在籍時代にも毎日の業務を記録されていまし。しかしそれらは軍事秘密だとのことで、敗戦間もなくアメリカ軍の手に落ちないように全部焼却さ れたのはとても残念だったと書いておられます。

 

何度かミュンヘンに来られた時は、先生はいつもノートブックを持っておられ、詳細にその日の出来事を書 かれていたことを思い出しました。それがこの本の執筆の基盤になったのでしょう。 書庫の一隅にあったこの本を再び読み返して、先生のある日を思い出しながらこの「書庫に中から」を書 きました。
 
最後になりますが、私が菊谷先生と知り合いになることが出来たのは、1950 年代の半ば頃、私が勤務し ていた東京中目黒の Y 社研究所に、当時芝浦工業大学の電気工学科教授として、学生 2 名を連れ てこられたのが最初でした。その後私はドイツに渡り、菊谷先生も度々ドイツに来られて再会を果たし親 交を深めました。考えてみれば、私のような一介のエンジ二アを相手に大変長いお付き合いをさせていただき感謝しています。

 

菊谷先生については別項で詳述するつもりで準備をしています。 
壱岐邦彦 DF2CW

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