top of page

​アマチュア版

私の履歴書 JA0SC 

吉池 弘忠(よしいけ ひろただ)

■はじめに  

"徒然なるままに日暮しパソコンに向いて心にうつりゆく昔ごとをそこはかとなく叩きつくればあやしゅうこそものくるおしけれ" 単調な日々が過ぎてゆき、兼好法師の日々もそうだったのかなと考えるこのごろです。

license.jpg

従事者免許証

長い間アマチュア無線三昧で過ごしてきた私にとって、この 40年間のできごとを書きとどめておきたくなり、暇にまかせて資料を整理すると結構残っていることが幸いして、なんとか纏めることができそうです。戦後伯父に頼まれて4球式、真空管ラジオを組み上げたのが今思えば、私のアマチュア無線に入り込んだきっかけになったのではないでしょうか。
 

当時は就職難で高校を卒業すれど仕事に就けなくて、やっと村の役場に勤めたのが昭和 29年(1954)でした。その後なんとなく「VOICE of AMERICA」、「ロンドンBBC放送」、「VATICANの声」のShort Wave Listenerを経て必然的にアマチュア無線へ移行していきました。ローカルにはJA0JI 黒岩さん、JA0HK(exCE)丸田さん、JA0LY 金井さんが同い年の関係で親しくお付き合いいただき何かと教えていただきました。

station.jpg
ja0sc_card.jpg

幻となった予備免許とJA0SC QSLカード

■アマチュア局の開局  - QRT-再開
 

昭和 34年(1959)5月に「電話級アマチュア無線技士」に合格、同11月に無線局の予備免許JA0SCを取得、準備している間にJARLによる認定制度に移行して、電波監理局(現総合通信局)から認定を受けるようにとの通知により幻の予備免となりました。無線機は「807シングル、3.5MHzと7MHz(7,150kHzまで許可された)」のA3、10ワットでスタートしました。
 

開局は昭和 35年(1960) 3月でした。アンテナは水平ダイポールでポールには、10キロほど離れた山から孟宗竹を買い自転車に括り付け、朝早く人通りのないのを見計らって引きずってきました。JA0JI、黒岩さんはX型の「AWXアンテナ」を上げていて当時の私には珍しく感じました。

mount.jpg

久保さんと北岳(南ア)頂上で

最初のコンタクトはJA0MMその後JA0HX、JA0RR(故柳沢氏)と続きました。1年間は夢中でQSOしたのですが、翌年からQRT状態で39年(1964)までにわずか15局がログに記載されてるのみで、1965から1968年 6月までゼロのありさまでした。振り返ってみるとこの頃仕事の関係で知り合った久保さんと県内の山登り(南、北アルプス、八ヶ岳、中央アルプス、奥秩父)に熱中し、結婚とも重なってすっかり無線を忘れてしまいました。
 

この時期は時あたかも戦後のジャズ全盛時代で「PRETEND」柳沢真一の歌を始め、ラジオから流れてくるアメリカンジャズを端から覚えて原語で歌い、今日の英会話の基礎?を身につけたことになりました。
 

再開は昭和 43年(1968)7月に 21MHzでの運用でした。翌月の 8月に「KR8BY(現JR6)」沖縄とコンタクト(次いでKR6VV)、これが実質海外局との最初のQSOとなりました。沖縄は当時占領時代でこのQSLカードは消滅カントリー(Entity)として現在扱われています。このときすでにアンテナは、日高の3エレメント 2バンダー八木を使っていました。
翌 44年(1969) 3月にはA3j 、SSBを取得、同4月のCQ WW WPX コンテストに初参加、W(アメリカ)外9局とのコンタクトでした。この時「CE,KG6, DU, W, VS6」の 5 Country(現Entity)を得てその前のKX6、KR8と合わせてDXCC、7 Countryとなりました。  

KR6VV.jpg

KR6VVのカード

NR-1300.jpg

NR-1300受信機

再開してまもなく電波、無線機はSSBシングルサイドバンド時代に入りました。この時まだA3で運用していた当局はSSBに移行するためSSBの送、受信機を組み立てたのですが、周波数変換ができず未完成に終わりそのRigが現存しています。構成は送信機は終段管に「6DQ6A×2」でした。受信機はIDEAL MODEL NR-1300のケースを使い組み立てました。そんなことで止むを得ず初めて八重洲無線のFT-DX400の終段管を6KD6×1にして免許を既製RIGで取得しました。

gang.jpg

■2アマ、1アマの取得で本格的なDXCC運用
 

時は変わり1970年代に入り10WでDXをやるのに限界を感じ、パワー、アンテナの強化に努めました。 2 アマを昭和 47年(1972)に、1アマを 50年(1975)に取得しました。1 アマは電信のみ合格後、免除期限ぎりぎりの取得でした。それで同年 5月にDXCCメンバー登録を果たし、同51年(1976) 1月に「JA0-DX-GANG」入りを果たしました。翌2月にはFT-DX400 & FL-2100Bと4エレメント八木アンテナ「CD714c」を上げ、念願の 500ワット、大型アンテナでの運用を開始、名実ともにDXersの仲間入りをすることができました。

ant.jpg
shacknew.jpg

MYシャックとアンテナ(DXCC AWARDも)

昭和 52年(1977) 4月から成人学校主催の「英会話教室」に通い始め、80年代にかけて英会話の勉強に励みました。その後中断して最近再開「Advanced」コースにここ 3年ほど通っています。この辺りから会話にある程度自信が持てるようになりました。  

GANGの先輩諸氏と接触するなかで、DXぺディション情報の取得が重要なことを知り、昭和5 3年(1978)8月にWest Cost DX Bulletinの購読をはじめました。これは翌 54年(1979)7月に休止となり、翌 8月からはThe DX Bulletinがスタートして購読を開始、昭和 68年(1993)10月まで続きました。

Gangbull_big.jpg

BULLETI

WestcostBull_big.jpg

West Cost DX Bulletin(休刊)

DXBull_big.jpg

The DX Bulletin(スタート)

accukeyer.jpg

ACCUキーヤ-接続図

70年代後半では私にとって切っても切れない無線機の付属機器の登場となります。すなわち、HAM Journal No.1に発表されたAccu Keyer(1973、8発表)、ついで「Accu-Memory」メモリーキーが発表されました。「Accu Keyer」通称エレキーに興味を持ち、製作基板をJA0BNX水橋OMからもらい組み立てて使用しました。

Accu-Keyer_p.jpg

ACCUキーヤ-、提供JA0BNX、水橋OM

これは ICロジックの組み合わせで、CWの短点と長点を1対 3の比率にして電波法運用規則に定める文字の間合いを自動的に発生させることができる画期的なものです。これにより私は以後右手、米搗きバッタのキーから、左手使用のパドルキーに変更しました。

■Dxer仲間との交流、コンテスト本格参加、 マイコン使用
 

無線運用も 30年目に入り、1980年代は私のDXerとして爛熟期を迎えることになります。昭和56年(1981)2月に東京九段会館で「第1回東京DXコンベンション」が開催されました。 「JA0-DX-GANG」の仲間からの誘いがあって、私もいっぱしのDXer気取りで全国の錚々たるたるメンバーとこんなに早く一堂に会することができるとは夢にも思えないことでした。

oh2bh.jpg

東京DXコンベンションOH2BH

ja1ely.jpg

左奥はJA1ELY,草野氏

この時の司会者はJH1BAN、バンサこと故藤村有弘さんでした。OMのことは当時、昭和46年(1971)発行の「海外QSO英会話」でJA1ANG、米田OMとの軽快な会話で知っていたので、余計に身近に感じられました。DXコンベンションは、以後毎年開かれ私は都合 6回出席したあと、なんとなく遠去かりました。 その後中止となったことを情報で知りました。

z80.jpg

Z80搭載コンテスト・キーヤー

エレキーに始まったアマチュア無線のエレクトロニクス化は、「HAM Journal」No.27(1981年10月発行)でいよいよZ80CPUが登場するZ80搭載コンテスト・キーヤー(JR3KEG、山内雪路)が発表されました。これは「Accu Memory」に不満を感じ、特にシリアルNo.の自動送り出し、間欠読み出し、副次的にCWの受信練習などができました。
 

発表では蛇の目基板を使用したので、私は昭和 57年(1982)に了解を得て基板を作り、希望者に10数枚領付しました。この時期すでにロジック回路を勉強していた関係で、ロムライターを作りロムの焼付けも行いました。ここで使われたメモリーは4Bit、500 Byte「HA472114」を4つ重ねて、8Bit,1 kbyeの回路でした。ロムは「2716、1k Byte」、基本OSは8Bit、CP/Mが使われていました。
 

これを期にコンテストの参加がしやすくなり、CQWW、WPX、ARRL、ヨーロッパの主なものは毎回 CW、SSBに参加しました。しかし、ダブリのチェックは手作業で行うため、この後のパソコン使用のコンテスト・プログラムに移行することになります。 (続く)  長野市松代町在住・吉池 弘忠

bottom of page