発掘:遺稿「線番の話」

JA1FG 梶井謙一氏の直筆原稿

JA1FUY/NV1J  SHINZABURO KAWAI

 梶井謙一さん(JA1FG、ex J3CC) は日本のアマチュア無線の草分けであり、日本のアマチュア無線家が尊敬してやまない先駆者のお一人です。Updated  1/29/2021

昭和56年(1981)4月、アマチュア無線人気が頂点を極めた頃、JARL、日本アマチュア無線連盟の役職から退いて研究三昧の梶井謙一さん(JA1FG)からモービルハム編集部に、「線番の話」というタイトルの原稿が送られてきました。 この直筆原稿が手元に残っていますので PDF(Portable Document Format)でお目にかけます。

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在りし日の梶井謙一さん(書斎兼シャックにて)

梶井さんは、誰でも知っている日本のアマチュア無線の草分けであり、多くのアマチュアが尊敬してやまない先駆者のお一人です。大正14年(1925)秋、梶井謙一さん(当時大阪市)がJAZZ、笠原功一さん(当時神戸市)がJFMTのコールサインで波長300m、電信のQSOに成功しました。その距離は20kmでした。
 

梶井さん(J3AZ、J3CC、JA1FG)と笠原さん(J3AA、J2GR、JA1HAM)は、その後JARL創立から昭和16年(1941)まで役員を務められ、梶井さんはJARLが法人化された昭和34年(1959)から42年(1967)まで会長職を務められました。笠原さんはソニーの前身、東京通信工業に入り井深大さん(J3BB)ら創業者達と共にソニーの礎となったのはあまりにも有名な話です。

​直筆原稿「線番の話」

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著作はJA6PL 井地 義智氏、JA1FG 梶井 謙一氏の連名によります。 
直筆原稿はPDFアイコンをクリックしてご覧になれます。

【ご注意】 この原稿は保存版として鑑賞にのみお使いください。

 引用される時はクレジット(著作権の表記:筆者名、QTC-Japan.com)を付記してください。

昭和56年(1981)5月18日と同7月27日「計算に強くなって差をつけよう」の続編を執筆されました。 添えられた図面に欠番を見つけて問合せしましたところ、新潟総会から帰宅されて体調を崩した様子を認めた来信がありました。 11月29日、「線番の話」の原稿が送られてきて、これが絶筆となりました。

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梶井謙一さんの私信(清書)

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梶井さんの直筆の私信はPDFアイコンをクリックしてご覧になれます。

昭和60年(1985)12月7日、梶井さんの訃報の知らせに埼玉県入間郡鶴ヶ島町のお宅を訪ねました。梶井さんの死を悼んで大勢のアマチュアが弔問に訪れていました。 家人のお許しのもとにシャック兼工作室に入れていただきました。実験用の机上にハンダごてやラジオペンチ、ドライバーなどが実験途中の機器とともに置かれていました。すぐにでも戻られて測定が始まるような臨場感のなかで梶井さんの足跡を偲びました。 (de JA1FUY)

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JA1FG 梶井謙一氏は昭和60年(1985) 12月7日死去されました。享年86歳でありました。


写真は昭和55年(1980) 4月14日、JAIAフェアで岡本次雄氏(JA1CA) が撮影した一枚です。

ICOM Webサイト「週刊EACON」 Onlineとーきんぐ 第31回 「私の宝物 JA1FG 梶井さんの直筆原稿 を併せてお読みください