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執筆者の写真JA1FUY/NV1J

忘れえぬ人々(3) 人生の転機となる「7MHzトランシーバー」

トランシーバーを作るきっかけは、移動運用にあこがれて可搬型の無線機が欲しいと思ったからに他なりません。送信機と受信機を一つの筐体に収めるという単純な発想でスタートしましたから、新しい回路も工夫もあったものじゃありません。偶然、スチール製ケースに出会いそして閃き、その筐体を利用して器用にまとめたに過ぎません。


ある時、ご近所さんから米国製と思われるラジオが持ち込まれました。「不要になったので役に立つなら貰って欲しい。」ありがたいお申し出に喜び、さっそく拝見するとスチール製の入れ物(筐体)にラジオが収納されていました。専らケースに注目してラジオを取り除き代わりに無線機を組み込む。このケースに肩掛けベルトを付けて可搬型とする。送信部は簡素な回路にする。VFOは内蔵しない等々、即座に構想がまとまりました。発振逓倍6BD6-電力増幅6BQ5 終段入力12W、低周波増幅6AV6×2―変調6BQ5プレートスクリーン同時変調のQRP送信機としました。


奇跡的に残った7MHzトランシーバーの写真、昭和35年(1960) 6月頃

昭和35年(1960)頃の作品ですから決して自慢になりませんが、それでも当時は意気揚々とトランシーバーを持って北海道へ移動運用を敢行しました。もちろんAC100Vを電源にしましたから屋内の運用に限られました。蓋をすれば完全な鉄の箱、可搬型と言っても電源トランスを内蔵していますから結構な重さになります。当時は東京・中野区の自宅から徒歩で都電の停留所へ、新宿・角筈で下車、徒歩により国電新宿駅へ、山手線に乗り換えて上野駅へ。さらに東北本線に乗り青森駅へ、さらに青函連絡船に乗船、北海道へ。昔は長い道のりでした。 トランシーバーに使った真空管は送信部5本、受信部5本、整流菅1本の計11本(球)でした。いずれも秋葉原の電気街に通い少しずつ集めたパーツにより組み立てました。VFOは外付けとし内蔵せず2~3個の水晶振動子を用意して差し換えて使います。


自作の「トランシーバー」が著名な筆者・藤尾八十治氏(JA1DRA)の目に留まり、商業誌への記事掲載を契機に編集者の道へ進むのですから人生はわからないものです。結局、増田正誼社長の知己を得て「モービルハム」の創刊に至るのも不思議なご縁だったと思い返しております。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/12

電波実験社の創業者 増田正誼社長(64歳)左は同夫人

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