top of page
検索

昭和35年(1960)7MHz AMでスタートし,昭和38年(1963)は5球スーパーにクリスタルコンバーターを付加、50Mc AMが受信できるようになりました。2E26を終段にした送信機を作り、これを第二装置として変更申請を行いました。このころマツダR360クーペにナショナルCRV-1+3球コンバーター、AM送信機(12AT7-6AQ5 出力1W、変調器12AX7-6AQ5)を搭載して現れて仰天しました。早速、帰途に就くJA1DOUと交信しましたが、8km~10kmが精いっぱい。車中はエンジンノイズとQSBに悩まされたと聞きました。(ホリゾンタル・クラブ 1963年9月号のマイシャックから)


中央がJA1DO村上 昭氏、後方はJA1JWC 北沢信彦氏、手前のYLはSWLからハムへ。

マツダR360クーペのリアバンパーに1.5mステンレスホイップ。ナンバープレートの下にJARLの門標が貼ってある。箱根・仙石原へ移動したときの一枚。 昭和38年(1963)6月、ナショナルFM-60-10Cというタクシー無線機が手に入り、それ以後FMだけで運用しています。チャンネルは一つ51.000McでQSOしています。8月4日「箱根の山から運用して東京・北千住のJA1GWとRS59でコンタクトできました。おもしろくてたまりません。」と語っています。


その後、R-360から三菱コルト600へ車を変えてモービルハムを続行、昭和40年(1965)頃、コルト600を譲り受けて待望のモービル局(JA1FUY)を開局することになります。

福山電機FDFM50-10Cだったか、型名がうろ覚えですが、送信部ドライバーに12BY7-終段6360 他にトランジスタ使用、ハイブリッドのトランシーバーでした。サラリーマン一年生にはトランシーバーは高値の花、分割払いの効く「ハム月販」にて購入しました。このトランシーバーは本体とコントロール部に分かれていて多芯ケーブルでつなぎます。本体はトランクに設置し、コントロール部を運転席のハンドル脇に取り付けます。FMですからスケルチと音量調節のボリュウム、送受信チャンネルは51.00Mcのみ。送信出力10W。後に51.120Mcを増設して2チャンネルとしました。


昭和40年(1965)のJA1FUYと三菱コルト600。リアバンパーに1.5mのステンレスホイップを装備してモービルハム本格デビュー。

三菱コルト600は空冷並列2気筒OHV 594㏄、出力25ps/4800rpm、トランスミッション3速マニュアル型、車重555㎏、最高速度は100km/hを可能としていたが、実際は2名乗車で90km/hが精一杯でした。(JA1FUY/NV1J)2024/12/14

 

トランシーバーを作るきっかけは、移動運用にあこがれて可搬型の無線機が欲しいと思ったからに他なりません。送信機と受信機を一つの筐体に収めるという単純な発想でスタートしましたから、新しい回路も工夫もあったものじゃありません。偶然、スチール製ケースに出会いそして閃き、その筐体を利用して器用にまとめたに過ぎません。


ある時、ご近所さんから米国製と思われるラジオが持ち込まれました。「不要になったので役に立つなら貰って欲しい。」ありがたいお申し出に喜び、さっそく拝見するとスチール製の入れ物(筐体)にラジオが収納されていました。専らケースに注目してラジオを取り除き代わりに無線機を組み込む。このケースに肩掛けベルトを付けて可搬型とする。送信部は簡素な回路にする。VFOは内蔵しない等々、即座に構想がまとまりました。発振逓倍6BD6-電力増幅6BQ5 終段入力12W、低周波増幅6AV6×2―変調6BQ5プレートスクリーン同時変調のQRP送信機としました。


奇跡的に残った7MHzトランシーバーの写真、昭和35年(1960) 6月頃

昭和35年(1960)頃の作品ですから決して自慢になりませんが、それでも当時は意気揚々とトランシーバーを持って北海道へ移動運用を敢行しました。もちろんAC100Vを電源にしましたから屋内の運用に限られました。蓋をすれば完全な鉄の箱、可搬型と言っても電源トランスを内蔵していますから結構な重さになります。当時は東京・中野区の自宅から徒歩で都電の停留所へ、新宿・角筈で下車、徒歩により国電新宿駅へ、山手線に乗り換えて上野駅へ。さらに東北本線に乗り青森駅へ、さらに青函連絡船に乗船、北海道へ。昔は長い道のりでした。 トランシーバーに使った真空管は送信部5本、受信部5本、整流菅1本の計11本(球)でした。いずれも秋葉原の電気街に通い少しずつ集めたパーツにより組み立てました。VFOは外付けとし内蔵せず2~3個の水晶振動子を用意して差し換えて使います。


自作の「トランシーバー」が著名な筆者・藤尾八十治氏(JA1DRA)の目に留まり、商業誌への記事掲載を契機に編集者の道へ進むのですから人生はわからないものです。結局、増田正誼社長の知己を得て「モービルハム」の創刊に至るのも不思議なご縁だったと思い返しております。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/12

電波実験社の創業者 増田正誼社長(64歳)左は同夫人

 

ホリゾンタル・クラブ報、昭和41年(1966)1月号「マイシャック」JA1DRA(ex J2IA)藤尾八十治氏宅への訪問記が載りました。お住まいは甲州街道と青梅街道を結ぶ中野通りのほぼ中間、中野区富士見町、都立富士高校のそばに位置します。石段を上り門の右にパンザマストが立っています。ブレーキ付きローテーターの上に50Mc  3エレメント八木アンテナが乗っていました。(注:Mcメガサイクル。当時の周波数の単位。現在はMHz)


JA1DRAのシャックを見渡すと三和NR-408受信機、 CC-6、SP-5、YAESU FL-10/40、TRIO TX-388S、50Mc 送信機3台、7Mc 送信機3台、変調器1台、ほかに受信機2台、周波数計BC-221-AKなどが並んでいました。


昭和41年(1966)シャックでくつろぐJA1DRA 藤尾八十治氏(58歳) 藤尾先生は私の師というわけでなく、当時、教師として技術系専門学校に勤務しておられたので仲間は敬意を込めて藤尾先生と呼んでいました。先生は昭和20年(1945)以前にJ2IAのコールサインで活躍しておられますし、QRA BOOK 1932の「受信局」のリストにお名前を連ねるオールドタイマーでもありました。

因みにQRA BOOK 1932の[J3 逓信管内]にはJ3CC梶井謙一氏やJ3DD笠原功一氏ら神代のお名前&コールサインを見付けて飽きません。


戦後はラジオ製作誌の「電波科学」、「電波技術」、「電波実験」「CQ ham radio」等で「だれにでもできるHi-Fiラジオとアンプの作り方」〈1956〉、「ラジオの工作」(1956)、「TX388の出力を4倍にする方法」「FETによるトラボルの製作」など多くの記事を発表しました、中でもA6判の書籍「テスターの使い方」はベストセラーとなりました。一方、昭和39年(1964)、ホリゾンタル・クラブの有志によりJARL理事選への立候補を強く要請し、クラブを挙げて応援して見事当選に漕ぎつけました。昭和39(1964)から昭和44年(1969)まで3期6年間、JARL理事を務められました。


7Mc帯トランシーバーに興味を持たれた藤尾先生が「連名で記事を書いてみないか?」と誘ってくださった。恐れを知らない駆け出しハムは一晩で記事を書き上げて先生に提出、添削を経て出版社へ届けられました。後日、掲載誌の「電波実験」誌を見ることとなり、雑誌デビューの記事を読み返して感動したのは言うまでもありません。


「電波実験」は電波実験社が発行元で、創業者の増田正誼社長と藤尾先生は昵懇の間柄でした。増田社長は電波技術社の前社長を歴任され、その前は「電波科学」編集長、戦前は逓信省のお役人でありました。記事掲載を契機に大学の夏休みに同編集部でテレビやラジオの回路の下図を描くアルバイトに出かけました。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/06

 
bottom of page