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JA1GW(ex J2IC) 日比五郎(ひび ごろう)さんにお目にかかったのは東京銀行本店勤務の村上 昭さん(JA1DOU)が主宰するハムグループに誘われて箱根・仙石原にある保養所にて、フィールドデ―コンテストに参加した時と覚えています。初対面の印象は戦前から活躍されたOMなのに気さくで温厚なお人柄に魅了されました。移動運用の合宿では真夜中に大涌谷(1,044m)へ上り、人気のない駐車場から51MHzFMを運用して東京都内の友人と交信を楽しみ、日中は芦ノ湖スカイライン、箱根スカイライン、伊豆スカイラインなど風光明媚なドライブを無線交信と共に満喫しました。


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↑日比さんの車載機はタクシー無線の払い下げ品ナショナル製FM-60-10 (54MHz~62MHz)を51.00MHzに改造してニッサン・セドリックに搭載。 この頃、車載無線機の花形だった米軍放出品が品不足となり、これに代わりタクシー無線の払い下げ品が各地に出回りはじめました。日比さんは東京都足立区のご自宅から神奈川県箱根仙石原の東銀・保養所へ駆けつけました。保養所に到着すると休む間もなく、送受信の周波数に若干のずれや受信感度の低下に違和感を覚えて、無線機を車から降ろして点検・調整を始めたのですから、その熱心な姿が印象に残りました。


当時、JMHC(日本モービルハムクラブ)メンバーの搭載機種別使用率で、70%以上の高率を示したナショナル製のFM‐60‐10、周波数は54MHz~62MHzあるいは62MHz~68MHz用の2種類があり、水晶制御周波数変調方式の無線機でした。 1963年9月、JMHCはこれまでの51MHz 1チャンネルからサブチャンネルに51.2MHzを提案しました。これ以降、多チャンネル化と全国的なFMモードの普及に拍車が掛かりました。


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↑東京銀行本店ハムグループの皆さん。左から3人目がJA1GW、右からJA1FUY、JA1DOU。51MHz FMを車載して箱根ターンパイクやスカイラインのドライブを楽しんだ。


JA1GW 日比さんのQSLカード
JA1GW 日比さんのQSLカード

日比さんは街の電気店を営む傍ら趣味のスキー滑りが嵩じてスポーツ店を開いたと聞きました。一方、JA1OS柴田俊生さんとJA1GW日比さんはJMHCの普及を目指して全国各地を回りモービルハムの普及に貢献しました。(JA1FUY/NV1J) 2025/01/16

 

1980年頃、東京都豊島区・駒込の本郷学園(幼稚園、中学校、高等学校)に隣接する閑静な邸内に7MHz帯のダブレット・アンテナ設置を友人の四条公信さん(JA1NLQ)に誘われて松平頼明邸を訪ねました、なんと松平氏は高松藩最後の藩主(11代) 松平頼聡の孫として生まれた13代当主・松平賴明氏(1909-1990)はJ2II、JA1JAMのコールサインを持つ熱心なハムでした。


アンテナ材料と同軸ケーブルなど一式を持参して松平頼明邸を訪ね、隣接するゴルフ練習場のネットを張るタワーと屋根から突き出したポールの間にアンテナを張った思い出があります。当時体力に自信の持てる50歳代でしたから屋根に上るのも、またゴルフのネットを張るタワーによじ登るのも躊躇がありませんでした。午後一番に始めた作業は夕刻には

高さ20メートル、7MHz帯1/4波長ダブレット・アンテナが完成しました。


発注済みのYAESUトランシーバーの到着を待ち、後日、アンテナの調整を兼ねて一人で訪ねることとなりました。7MHz SSBでテストすると面白いように交信が進み、理論上の利得は2.14dBi(2.15dBiとされる場合もある)を実感できる出来栄えでアンテナの仕上がりにご満足いただけました。


当時、松平頼明氏は本郷学園理事長、日本ボーイスカウト理事などの要職にありご多忙と見受けましたが、昼食をご一緒いただき「ざるそば」をご馳走になりなりました。高松城の話に触れると、『高松に行くと、家老など重職の子孫が迎えてくれる。』 

『高松城は昭和29年、城跡を管理する財団法人松平公益会から高松市に譲渡した。』 

『水戸徳川家と高松松平家は互いに養子縁組を繰り返した。』等々、貴重なお話を披露してくださいました。


昭和20年(1945)妻子と共に高松に移住し、高松城址内 披雲閣の2階に5年間ほど居住したと聞きました。平成24年(2012)披雲閣(旧松平家高松別邸)が高松城址と共に重要文化財に指定されました。


その後、JARL技術研究所のお披露目等で何度かお見かけしましたが、1990年2月23日死去。享年80歳、東京の護国寺で葬儀が行われ、歴代の藩主が眠る法念寺(高松市仏生山町)に葬られました。(JA1FUY/NV1J) 2024/12/30


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↑JA1JAM(ex J2II)松平頼明氏(1980年頃)


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↑松平氏の居城、讃岐国・高松城の良櫓(うしとらやぐら)

 

昭和35年(1960)7MHz AMでスタートし,昭和38年(1963)は5球スーパーにクリスタルコンバーターを付加、50Mc AMが受信できるようになりました。2E26を終段にした送信機を作り、これを第二装置として変更申請を行いました。このころマツダR360クーペにナショナルCRV-1+3球コンバーター、AM送信機(12AT7-6AQ5 出力1W、変調器12AX7-6AQ5)を搭載して現れて仰天しました。早速、帰途に就くJA1DOUと交信しましたが、8km~10kmが精いっぱい。車中はエンジンノイズとQSBに悩まされたと聞きました。(ホリゾンタル・クラブ 1963年9月号のマイシャックから)


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中央がJA1DO村上 昭氏、後方はJA1JWC 北沢信彦氏、手前のYLはSWLからハムへ。

マツダR360クーペのリアバンパーに1.5mステンレスホイップ。ナンバープレートの下にJARLの門標が貼ってある。箱根・仙石原へ移動したときの一枚。 昭和38年(1963)6月、ナショナルFM-60-10Cというタクシー無線機が手に入り、それ以後FMだけで運用しています。チャンネルは一つ51.000McでQSOしています。8月4日「箱根の山から運用して東京・北千住のJA1GWとRS59でコンタクトできました。おもしろくてたまりません。」と語っています。


その後、R-360から三菱コルト600へ車を変えてモービルハムを続行、昭和40年(1965)頃、コルト600を譲り受けて待望のモービル局(JA1FUY)を開局することになります。

福山電機FDFM50-10Cだったか、型名がうろ覚えですが、送信部ドライバーに12BY7-終段6360 他にトランジスタ使用、ハイブリッドのトランシーバーでした。サラリーマン一年生にはトランシーバーは高値の花、分割払いの効く「ハム月販」にて購入しました。このトランシーバーは本体とコントロール部に分かれていて多芯ケーブルでつなぎます。本体はトランクに設置し、コントロール部を運転席のハンドル脇に取り付けます。FMですからスケルチと音量調節のボリュウム、送受信チャンネルは51.00Mcのみ。送信出力10W。後に51.120Mcを増設して2チャンネルとしました。


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昭和40年(1965)のJA1FUYと三菱コルト600。リアバンパーに1.5mのステンレスホイップを装備してモービルハム本格デビュー。

三菱コルト600は空冷並列2気筒OHV 594㏄、出力25ps/4800rpm、トランスミッション3速マニュアル型、車重555㎏、最高速度は100km/hを可能としていたが、実際は2名乗車で90km/hが精一杯でした。(JA1FUY/NV1J)2024/12/14

 
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