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追悼:原 昌三氏(JA1AN) 遺稿

「日本のハムのあけぼの」

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1.戦前の動向

日本のアマチュア無線は、関西と関東でほぼ同時期の大正14年(1925年)に始まった。関西では大阪を中心にしたグルーが、35mバンドや37mバンドで運用し、一方、関東では、東京を中心として80mバンドで運用する個人が増加してゆき、その後42mバンドでグループ化していった。
 

このように当初は、異なったバンドでグループ内の通信を楽しんでいたが、東京のある局が試しに周波数を下げてみると思いがけずに大阪のグループを発見して、交信に成功したのであった。この最初の交信は大正15年3月であった。
 

そして大正15年4月、関西グループと関東グループが面会し、アマチュア無線団体の結成を決意し、同年6月12日JARL結成の知らせをアマチュア無線の電波を使つて、全世界に向けて打電した。 その結果は、ARRL(アメリカのアマチュア無線連盟)の機関誌「QST」の1926年8月号に詳しく報道されている。

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昭和25年広島国体馬術優勝、25~26年全日本馬術大会優勝の頃の写真。日付(1987年6月1日)は、六本木のカフェで(編者)がもらい受けたときのもの。

2.戦中の動向

時代は進み昭和16年(1941年)に入ると、アマチュア無線の通信内容や英語の使用の制限などが実施され、12月8日いよいよ太平洋戦争に突入するに至った。
 

その日の12月8日付けで逓信省(今の総務省)はアマチュア局に対して「実験用私設無線電信電話取締非常措置に関する件」として、電波発射の禁上の通達があり、その後、12月13日付けでいよいよ無線設備自体の使用禁上が通達され送信・受信ともに禁止となり、アマチュア無線家の無線設備はすべて封印されることとなつた。
 

昭和17年4月18日には、B25爆撃機19機による東京空襲が突然おこなわれた。このため、漁船などを沿岸警備のために活用し、その連絡用通信網の整備するため防空用無線機の製作をアマチュア無線家で組織された国防無線隊に依頼があった。この防空用無線機は、76-41ラインアップの56 Mc(MHz)、A3、数ワットの送信機と超再生方式の受信機で構成され、急きょ数10台製作された。

3.戦後の動向

そして昭和20年8月15日に大平洋戦争は終結し、JARLの再結成、再開を求めた署名運動などの活動をおこなつたが、アマチュア無線の再開にはもう少し時間が必要であった。
 

昭和25年6月1日に電波3法が施行され、翌昭和26年6月に待望の国家試験が実施された。当時の資格制度は、第1級と第2級の2種類で、特に、第2級はモールスの試験がないことから国際電気通信条約無線通信規則(RR)違反ではないかということで、この資格制度が制定される前の昭和25年4月頃、国側とアマチュア側とで激しい議論がおこなわれ、そして、通信院電波局(後の電波管理委員会)は、今後の日本の電子立国を目指すために国内法で許可するということになり、結果的に我が国のアマチュア無線人口の大幅な拡大につながり発展の礎となつた。
 

運用できる範囲は、第1級はすべてのバンドでのモールス通信・無線電話が許可されていたが、第2級は50Mc(MHz)以上、8Mc(MHz)以下で空中線電力100Wの無線電話の通信操作におよび技術操作に限られていたため、実質的には7Mc(MHz)と50Mc (MH2)しか運用することはできなかった。
 

しかし、3.5Mc(MHz)と7 Mc(MHz)は今のようにバンドとしては許可されず、個別周波数の割当てであり、特に7MHzの電話モードで使用できるのは7050kHzと7087.5kHzの2波だけであつたため、続々と開局して数100を超える局が同じ周波数に出現することになり、たちまち混信の渦となってしまった。この状況は隣国の韓国やアメリカなどからクレームが付けられる状況となり、我が国ではこの7Mc(MHz)から50 Mc(MHz)や144 Mc(MHz)に移行するように活動がおこなわれた。
 

ところで、当時は周波数制御に水晶発振子が使用されていたが、目的周波数に合わせるために水晶片に赤チンを塗ると周波数が高くなり、鉛筆でこすると周波数が低くなるといったように、周波数を調整するのに皆さん非常に苦労されていた。

4.初級資格の誕生

昭和33年5月6日に電波法の一部が改正され、電信級と電話級のいわゆる初級資格ができた。また、昭和40年には養成課程講習会制度もスタートし、初級アマチュア無線家の拡大の拍車をかけることになった。
 

アマチュア無線人口の拡大を受けて、国内でアマチュア無線機を製造するメーカーが次々と誕生した。トリオ(現ケンウッド)、八重洲無線(現バーテックススタンダード)、少し遅れて井上電機(現アイコム)などから、キットや完成品が次々と発売されるようになつた。当時、アマチュア無線機器は、アメリカの企業であるコリンズ、ハリクラフター、ハマーランド、ナショナルなどが主流であつたが、日本の企業が性能の良さや価格の優位性などから世界のアマチュア無線市場を制覇することとなった。

5.アマチュア衛星

昭和56年、JARLは国際親善、科学教育に対する効果などからアマチュア衛星の打ち上げを郵政省に要望書を提出し、関係者・関係機関・関係企業の協力により昭和61年(1986年)にJAS-1(ふじ)、平成2年(1990年)にJAS-lb(ふじ2号)そして平成8年(1996年)にJAS-2(ふじ3号)を打ち上げた。

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昭和61年8月13日、JAS-1打上に成功”ふじ”と命名さる

6.日本アマチュア無線振興協会(JARD)

今までJARLでおこなつてきた無線設備の保証認定や養成課程講習会のほか、アマチュア無線の秩序の維持を一元的におこなう機関として平成3年、日本アマチュア無線振興協会(JARD)が設立された。平成3年にはアマチュア無線機器の技術基準適合証明制度を導入し、そして平成5年に国内全エリアで第3級および第4級アマチュア無線技士資格の養成課程講習会を開始した。

7.アマチュア無線従事者資格取得者数の推移

昭和35年の初級資格の誕生、昭和40年の養成課程講習会制度の誕生を受けて、アマチュア無線従事者資格の取得者数は大幅に増加した。 昭和41年までは年間1万人程度の取得者数が、昭和41年から昭和58年までは年間2万人~6万人増加し、アマチュア無線従事者資格取得者数が100万人を超えることとなった。その後、現在までは年間1万人増を推移している。

8.アマチュア無線局の推移

アマチュア無線局数は、アマチュア無線従事者資格取得者数に連動して、昭和35年までは年間1,000局程度の増が、昭和36年以降年間7,000局~15,000局の増と推移し、10万局を超えた昭和45年頃から年間3万局~5万局増となり、平成7年の136万局をピークとして、現在は53万局(昭和56年=1981年)となつている。 アマチュア無線局数の減少傾向は世界的に見られる傾向であり、その原因は携帯電話の普及とインターネット網の拡大といわれている。 (編注:令和3年9月、約38万3,868局)

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筆者:原 昌三(はら・しょうぞう)氏 JA1AN
一般社団法人日本アマチュア無線連盟会長(1970-2012)
一般社団法人 日本アマチュア無線連盟 名誉会員(2014)
 
(編注)本稿は原昌三氏が生前、関係者に配布された草稿に写真3枚を追加して独自に編集しました。

QTC-JAPAN.COM 2018.06.14

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1973年、東京・新宿区信濃町のご自宅のリビングでハム雑誌「モービルハム」の記者からインタービューを受ける原昌三氏(JA1AN)の様子。当時、JARL会長

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