CQ ham radio の思い出とアマチュア無線

CQ ham radio 900号の別冊付録にはバックナンバーで振り返る 75 年と題して、「CQ 誌とわたし」が掲載され、多くのハム の方々が、この雑誌との最初の触れ合いを書いておられました。80 の齢を過ぎると、いつか趣味として楽しんできたアマチュア無線の回顧する時期があるのではないかと思っていましたが、今回の CQ ham radioが900 号という機会に、思い出しながら PC の前に座ってキーボードを叩たいたのがこの拙文です。

Iki Kunihiko DF2CW (ex DJ0VK, JA7HM)

アマチュア無線に関す月刊雑誌はここ半世紀の間に多くのものが発刊されましたが、その栄枯盛衰の世界にあってただ一誌だけ不動の地位を築き、アマチュア無線の世界に親しまれた月刊誌に「CQ ham radio」、それが今 900 号を数えるに至ったことは誠に喜ばしい成果であることは誰もが認めるところです。

心からお祝いを申し上げます。私はそれを私達の JAIG メンバーの S さんのご厚意でお送りいただいているこの本で知りました。そしてその中には、創刊号から 900 号までの表紙が掲載してありました。とても印象深い一覧図でした。(JAIG:Japanese radio Amateur In Germany 私の呼びかけで 1984 年にドイツ在住の日本人ハムで集まったグループですが今ではドイツ人を含めて世界各国にそのメンバーがいます。)

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CQ ham radio 2021年6月号、900号の表紙。(CQ出版社)

仙台生まれの私がアマチュア無線を始めたのは、高校 2 年の時でしたから 1953 年(昭和 28 年)でした。数えてみれば今年(2021 年)でアマチュア無線歴が 68 年にもなります。仕事で東京に出てきて約 10 年、そして 1966 年(昭和 41年)に機会があって渡独して今日に至っています。その間趣味としてのアマチュア無線からは離れることはなく続けています。そしてそれが取り持つ縁は世界に広がり、この趣味の国際性が私の人生を豊かにしたことは間違いありません。

どこに行っても容易に友を得ることができる趣味はこれ以外に考えられないでしょう。ですから今回のこの雑誌が 900 号を迎えたという歴史は、私のハムとしての人生歴にも当てはまるのではないかと思います。
 
この 6 月号の 28 頁から 42 頁の 15 頁にわたって、今まで発行された CQ の表紙の一覧表が掲載されていました。そしてその中の 1957 年 8 月号、即ち CQ  108 号に私が撮影した写真を発見したのです。これは当時 CQ の編集長を務めておられた菅田直和さん(JA1AP)にお送りしたら、表紙として掲載の栄誉を賜りました。JA7 エリヤでの最初の YL 局「JA7JL」の写真でした。

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CQ ham radio 900号(CQ出版社)の記事から歴代の表紙を一部抜粋しました。

1957 年(昭和 32 年)という年はアマチュア無線にとって変化の多い時期であったと思います。それは CQ が通巻 100 号を飾ったお祝いの年でもありました。そして JA1JG のコールサインを持つ作間さんが第一次南極越冬隊員として初めて昭和基地から QRV された年でした。そしてまた当時のソヴィエト連邦共和国がスプートニクと命名された衛星を打ち上げ、世界を驚嘆させた年でもありました。この時代はまだ CW と AM と呼ばれる振幅変調が主流で、SSB は実験的な運用の段階だったと記憶しています。

大抵のアマチュア無線局は、SSB をテストしている局が散発的に送信するシグナルを AM 局は受信して、BFO をゆっくり回して復調を試みていました。 そう、ここで思い出したことがあります。JA1KC のコールサインを持つ小宮幸久さん(故人)は「おい HM、(私の日本でのコールサインは JA7HM でしたので、) 俺はモガモガは嫌いだから AM で出てこい」、という命令口調で
話しかけてきましたが、しかしそれには大いに親しみのある余韻を含んだ小宮幸久さんの人柄でした。懐かしいそして当時ののどかな交信の一コマが思い出されます。
 
SSB を AM 受信機で受信すると、その再生音がモガモガと聞こえるのです。これも余談ですが、彼は自分のコールサインを「Just Attempt one Kissing Chance」という独自のフォネティックコードを使っていました。 

試験を受けたのは1953年

思えば、私が中学生の頃ですから(1950 年代の初期)には当時刊行されていた雑誌の中に、「初歩のラジオ」「子供の科学」そして「天文と気象」などという月刊雑誌があり、子供心に、あらゆるものに興味をもっていた私にはどれもが大変面白く、それらをむさぼり読んでいた時代でした。また杉本哲さん著の「初歩のラジオ読本」(初版本だったと思います。もちろんトランジスターの記載のない真空管時代のもの)は私を強くラジオの世界にひきつけました。

そして中学生の頃にはジャンク部品を集めた並 4 という 4 球式のラジオを組み立てました。マグネチックスピーカーから中波放送を受信したときの感激はいまだに覚えています。 

「なんでその頃ラジオを」という問に対しての答えは、中学の同級生に物理に興味を持っている友人がいて、彼から「ラジオ」の面白さを教えられたからでした。 その友達から素人でも電波を発射できるという情報をもらい、アマチュア無線の国家試験を受けることにしたのです。それはたしか 1953 年(昭和 26 年だったと)記憶しています。 

それと相前後して、私は郷里仙台の先輩ハムとの交流が出来ました。その中に CQ ham radio を購読している OM を知ったのが最初の CQ との出会いとなったのでした。 当時 CQ は書店での購入は難しく、みんな直接取り寄せていたようです。私たち子供の無銭ハム(!)にはこの「CQ ham radio」は美望の的でした。毎月開かれる仙台クラブのミーティングでは、友達が持ってくる CQ を借りてはその隅々までむさぼり読んだのです。今では考えられないアマチュ無線の世界でした。

DJ0VK 初めて日本と交信

仕事で東京に転勤になったからは多くのハムの輪が広がりましたが、その頃知り合えたアマチュア無線家の諸兄の多くは故人となられてしまいましたが、今回出版された CQ 900 号の読ながら往時のハムの世界を思い出すのです。 誰でもアマチュア無線を趣味にしていれば、その歴史の中で忘れえない思い出は多々あると思います。私の場合は、ドイツに来てアマチュア無線を再開して、ドイツで外国籍を有するハムに交付されるコールサイン DJ0VK を使って初めて日本と交信できた思い出です。

この話は 1969 年末ごろに書いた私の手記がありますのでそれの一部に加筆訂正してここに転記します。その題名は 「ハローCQ 1st JA JA5AUC...」としておきましょう。このとき使用していたのは 2.7m のホイップアンテナでしたが、とりあえず 15m バンド(21MHz)を受信していたら聞こえるのは EU 内の局がほとんどでした。そこで比較的よく受信できたミュンヘン市内のDK1YB をコールしたら QRZ が返ってきました。そして私のレポートは RS43 とのことです。相手は 3 エレメントの八木アンテナで当局へビームを向けてのレポートでした。こちらは 100W(TS-510)の送信電力があったのも関わらずです。
 
昔習ったアンテナテクニックを思い出しました。「案ずるより生むがやすし」とはよく言ったもので、調整前のSWR が 3 以上あったものが、アンテナと無線機の整合を調整したらSWR 1.2 以下にすることが出来ました。その後 LA、SM、OZ の局をコールしたら信号強度 S が 9 から 9+で交信でき 2.7m のホイップアンテナも満更ではないことを実感したのでした。 

この頃の電波伝搬条件は 20m バンド(14MHz)の方が良いようで、再びアンテナを 20m バンドに調整しなおして 20m バンドをワッチしたら、初めて受信できた日本からのシグナルは JA7BWV でした。なんと私の郷里仙台の局で G の局 と交信中でした。彼の交信が終わってすぐ JA7BWV をコールしましたが私のシグナルは受信してもらえませんでした。このとき彼のシグナルは S8 で入感していました。JA 側に混信がなければ交信可能との自信が出てその機会を待ちました。
 
1969 年 9 月 19 日ドイツ時間の午後 6 時 18 分、日本時間では真夜中の 2 時 18 分に、私はその感激を味わうことが出来ました。相手の局は JA5AUC、愛媛の三ツ田さんでした。日本は深夜だというのによくワッチをしてくれたものでした。レポートは RS54 を頂き、この 2.7m のホイップ ミニアンテナにすっかり自信をつけられました。 

その後数日間にわたって 30 局以上の日本の局と交信が出来ました。そして大きなアンテナを上げるのは馬鹿らしいというハムも出てくる始末でした。私は今でも大きな自信をつける機会を与えてくれた三ツ田さんに感謝しています。 この頃になると XYL も面白がって無線機のわきで一緒にワッチをしていましたが、私が G の局と交信していると、その内容が英語だったので理解できたらしく面白がって手伝ってくれたものでした。

この時期に交信できた JA の局は、21MHzで JA6JQ, JA6KGG のオシドリハム、それに JA8FRA, JA8DND, JA8HNX そして JA8FOM とのラウンドテーブル QSO などがあります。 長時間の QSO で忘れられないのは、JA1FRE 局 (群馬県の深町さん、故人) との日本とドイツの間のラグチュー でした。それは 30 分以上にもわたるものでした。そしてその後の訪日の際はアイボールQSOを果たしています。とてもいい思い出です。 

アンテナ建設の問題のある方は 2.7m のホイップアンテナをお試しになってはいかがですか?
という内容でした。 

とっておきのお話し

50 年代の終わりごろ、仙台に 100TH という新品の送信管が出回りました。米軍放出のジャンクは東京が中心でしたが、よりによってそれが仙台に出てきたのです。当時この真空管はパワーアップするために、私達には大いに憧れの的だったのです。若いハムの方々にはご存じないかもしれませんが、この 100THという真空管は第 2 次大戦に米軍が使っていた Hallicrafters 社の BC610 と言う送信機に使われていたのです。

仙台に進駐した米軍のGIの中に(彼はアマチュア無線はやっていなかったと記憶しています)この無線機の整備担当者がいて、彼が予備として持っていたこの真空管を仙台の一部のハムにあげたのでした。数としてはそんなに多くはなかったと思いますが、何しろそれが東京のハムの間で大いに話題となったことは事実です。これは高田馬場駅前にお住いの JA1EF の樋口さん(故人、スペイン語がお上手でした。)
から伺った話でした。 

100TH でもう一つの話題があります。仙台から東京へ行く機会があったとき、上野駅の近くに住むハムを訪問したことがあります。残念なことに彼のコールサインは失念してしまいましたが、彼が私に見せてくれた設備は、この 100TH をプッシュプルにして自作した7MHz 用の送信機でした。そしてそれは、多分シールドというよりも高圧危険の防止のために、鉄格子の、ペットを入れておくような檻の中に組み込んで、外からこの真空管の赤々と光ったフィラメントとプレート電極を見ることができるのです。

そして AM で変調される度にその光度が変化して、見ている人の目を幻想的にさせてくれるのです。私達仙台の無線局は、やっと
807 で 10W 出たと喜んでいる時代に、東京のハムは何と桁違いな実験をしているではありませんか。「たまげたー」とはこのことをいうのでしょう。 因みに、当時の国鉄列車で仙台から上野まで 8 時間もかかった時代です。 

JA3RF、桑垣啓介さん(故人)は 50MHzのモービル機を自作して、彼愛用のフォードに乗って日本全国を走り、モビール運用の先覚者となったことを知るハムは多くないと思います。1957 年(昭和 32 年)だったと記憶していますが、彼は仙台まで来たのでした。当時 CQ 出版社から発行されたアマチュア無線局名録の中に記載してある 50MHzバンドの許可を受けた無線局に立ち寄る日程だったようです。私はこのとき 50MHzの許可を持っていました。この時が桑垣さんとの初対面でしたが、これを契機に、私の渡独後も親しく手紙の交換や、故国日本を忘れるな、という添え書きと共に、日本の本を何冊か送っていただきました。彼のサイン入りで私にとっては貴重な本です。 
 
このような忘れえない思い出が次々と脳裏を駆け回っていて枚挙にいとまがありません。 

就活中!?

いつだったか、知り合いの OM が、ある話題から転じて「今週は就活中だと」話していました。彼は私の様に年金生活をしている OM だったので、私は不思議に思い「なんで今頃新しい就職口を探すのだ」と聞き返しました。その時私は、彼はどこかの慈善事業団体にでも入ってお手伝い程度の仕事をしたいのか、と勝手なことを考えていました。
 
しかしそれは私の聞き違いであることが、彼のその後の説明で理解できました。 故国を長いあいだ離れていると、変化する日本語の表現にも戸惑うことがあります。彼の言っている「就活」とは同じ発音でも「終活」、すなわち人は晩年に近くなったら身の回りを整理せよ、ということだったのです。私は日本語音痴になっていたようで苦笑してしまいました。 

人は誰でも収集することに喜びを感じます。それが切手の収集であったり、コインのそれだったりします。しかし無線を趣味にしている人は古い無線機を集たり、あるいはアメリカ製の無線機を、ドイツでは東欧製の無線機を収集して人もいます。特に私の様に自作を楽しみにしているようなハムは、いろいろな部品を集めては、セットを組み上げ完成の喜びを味わっていました。

またそれらはいつか使えるだろうとシャックに飾ったりしておきました。それが私の収集癖でした。無線機も同様です。そうしてシャックの中は所狭しと、しかも雑多に置かれて手の付ようがなくなってしまいます。XYLの方からお掃除するのが大変だ、という愚痴を聞くこともあります。そしてもっと困るのが、この「終活」を考える時期に差し掛かっときです。

私はドイツに来てからいろいろな無線機を使いました。しかしそれらには愛着があってなかなか手放すことが出来ずに並べて飾っていました。その様子は CQ  2006 年 12 月号の「シャック拝見します」で紹介されました。 足腰の痛みを感ずるようになってきた 80歳を過ぎたハムには、この「終活」という言葉が理解されるようになってくるのです。今ではこの「シャック拝見します」でお見せした私の愛機たちは殆どがお嫁に行き、現在では写真にあるようなまったくシンプルな設備となってしまいました。

SteppIR と伸縮マストはロングワイヤーアンテナとプラスティックの釣り竿マストに代わりました。 愛用していたマグネチックループアンテナは知人に使ってもらうことにしました。そして無精になったので、自動でマッチングの取れる AH-4を使って細々とアマチュア無線を楽しんでいます。DX を追うわけでもなく、コンテストに参加して気炎を上げるわけでもなく、夜な夜なラグチューに明け暮れるわけでもなく、ただ JA からのシグナルに耳を傾け、忘れかけた日本語での QSO に喜びを感じているのです。 

インターネットの時代になって、DV モードの発達が私をまた日本に近ずけくれましたが、最初に覚えたハムの感触である、雑音の中から聞こえてくる故国からにシグナルには格別の思いがあるもので、これらアマチュア無線家にだけが経験する醍醐味だと思い、いまだ HF での QSO に魅力を感じています。 そして今では無線通信にパソコンが使われるようになったので、FT8 モードで JA のコールサインを見つけては勝手に PC に QSO をさせて、無線の進歩に後れを取らないようにしています。 

これは老化防止の手段でもありましょう。

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DF2CWのシンプルな現在のシャック

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DF2CWのアンテナ

それでは DF2CW 局の「終活」の整った現在の設備をお目にかけましょう。左の箱に入っているのは IC-7600 に PC を接続したものです。そして右にある小型の箱は IC-7000 とAT-180 を組み合わせた HF の予備機と 2mと 70 ㎝バンド用です。モービル機として使えます。箱に入れたのは、ただでさえ多いケーブルが、引っかかって切断しないようにセットとして組み込みました。

またボケが高じると、あれっこのケーブルはどこに接続するの? なんていうことが起こりかねませんから。アンテナはもっとシンプルでロングワイヤーです。アンテナ線はこの写真では見にくいのですが、先方の木立にわきに建てたファイバーグラスマストに取り付け、手前のスタンドに取り付けた AH-4 に接続しています。ラジアルは屋根が銅板ですので、それに接続しました。すこぶる快調で老人ハムには最適だと思っています。

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DF2CWのQSLカード

このアマチュア無線を通してもっとたくさんの思い出があります。それらを思い出すととても懐かしくなりますが、多くの友は既に故人となられているのがとても寂しく感じられます。 CQ ham radio の 900 号発行を契機にいろいろな、忘れかけた思い出を蘇えさせることが出来ました。
 
しかしたくさんある思い出は外国に住む、そして日本語をこよなく愛する年寄りハムの昔話集になってしまいますので、この辺で筆をおくことにします。 
 
壱岐邦彦 DF2CW (ex DJ0VK, JA7HM)